岐阜の「遊宴文化」
長良川の恵みがもたらす竹・和紙を材料とする提灯・傘・団扇等の伝統的な産業を中心とした“町衆”
“旦那衆“に支えられて江戸・明治に勃興し、昭和初期には伊奈波界隈や柳ヶ瀬を中心に500名もの芸舞妓がそれぞれ伎芸にしのぎを削りました。
また古い資料を見ると岐阜では昔から芸妓見習いを「舞妓」と称しております。
長良川船遊び
長良川船遊び
1300年の歴史を有する長良川鵜飼は御料鵜飼として全国随一の格式を誇り、篝火に照らし出された歴史絵巻は古来より人々の心を捉え、本居宣長、山田顕義、チャップリンなど多くの文人墨客が船遊びに興じました。
幽玄な鵜飼と共に涼やかな船上でお客様をおもてなしする「船遊び」は岐阜の遊宴文化の“最大の特徴”であり、神楽や巫女舞に通じる芸舞妓の舞は“船上の祈り”として夕闇の長良川において“神々”に捧げられます。
信長公のおもてなし
1568(永禄11)年には織田信長公が武田信玄の使者に対しては、自分と同様の船を仕立てて鵜飼観覧に招き、土産に鵜飼で獲れた鮎を持たせたと伝えられます。細部まで行き届いたおもてなしに、来賓は大いに満足したといいます。そんな姿を現代に継承した岐阜ならではのおもてなしが岐阜の芸舞妓の矜持と云えるのです。
岐阜の舞妓の特徴
岐阜の舞妓は、髪型が稚児髷で、帯はやの字崩しであることが特徴です。
- 髪型:稚児髷(ちごまげ)
- 帯:やの字崩し
稚児髷
稚児髷は、幼い男児の髪型を模した髪型で、前髪を真ん中で分けて、後ろでまとめた形です。岐阜の舞妓の稚児髷は、前髪を長く伸ばして、後ろで大きくまとめるのが特徴です。
やの字崩し
やの字崩しは、帯の結び目を、帯の中央ではなく、帯の下側に寄せて結んだ形です。この結び方は、岐阜の舞妓の華やかな姿を引き立てるとされています。
〈やの字崩しの由来〉
やの字崩しの帯の由来には、以下のような意図があります。
- 本来、舞妓は、鵜飼船の上で、芸を披露したり、茶や酒を振る舞ったりしながら、見物客をもてなしていました。そのため、帯が長く垂れ下がったままだと、お客様にぶつかったり、邪魔になったりするため、帯の結び方を工夫して、やの字崩しにしたという説。
- やの字崩しは、帯の結び目が大きく、華やかに見えるため、鵜飼の見物客の目を引きつける効果があるという説。
やの字崩しは、岐阜の舞妓の華やかな姿を象徴する結び方として、今もなお受け継がれています。